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執筆者の写真東海林弘靖 / Hiroyasu Shoji

電球は切れたほうが良い?


電球交換のイメージ


照明の物差し

「LED電球が切れた!」

先日、こんな声を耳にしました。長寿命と言われているはずのLED電球ですが、購入して1年半くらい使ったところで切れてしまったというのです。なんなら、それ以前から使っていた電球型蛍光灯ランプは2年経ってもまだ切れていないのに・・・これはいったいどういうことなのか! という怒りの声が聞こえてきました。

 

寿命4万時間とは?


LEDは寿命が4万時間で10年間もつ!(一日10時間の点灯で10年で3万6500時間という計算)と謳われて登場した訳ですが、それは一体どういうことなのでしょうか?実はこの4万時間の定義は光束が初期値の70%に低下するまでの時間と日本照明器具工業会に定められたものです。つまり、切れるまでの時間ではなく、最初の明るさから3割減って7割くらいになってしまうまでが4万時間かかるということです。しかし、これはLEDの素子のみの話で、安価で粗悪なLED電球では、実際に寿命を決めてしまうのは、LED電球の中に入っている電子パーツや電子回路の不具合によるものと言えるかもしれません。


 

手間は悪者じゃない

さて、今回のテーマ「電球は切れたほうが良い?」 なのですが、少し疑問符を残しながらも、できれば切れたほうが良いのではないか! というのが私の見解なのです。粗悪なものを良しとするのではなく、白熱電球時代から続く「切れる電球」という存在が、これまで私たちに意識させたことは少なくないと思うのです。


そもそも電球には長短の差こそあれ、「寿命」が設定されている以上、切れることを受け入れて、さらに電球と人とのもっと発展的で素晴らしい関係が構築できないものか?と日頃、私は考えております。便利を追求することが、必ずしも幸福につながるとは考えていないのです。


電球が切れることで、その電球がもたらしている日常の光環境を改めて意識したり、次も同じ光を自分は求めているのかしら?と問い直してみたり、せっかく替えるなら、蒸し暑い夏だからクールな色味の電球に替えてみようといった思考展開のきっかけになると考えます。


 

欧米でキャンドルが使われる理由


ものごとの便、不便は一つの観点に対する物差しでしかなく、もう少し別の物差しを持ったほうが人生を豊かに生きることが出来るのではないか! これは光のソムリエの根幹に流れるものの考え方なのでしょう!


少し話を世界に広げてみましょう。たとえば、ヨーロッパの街を旅していると、そこが都会であっても田舎であっても、キャンドルが普通に沢山暮らしの中で使われているのがわかります。


キャンドルを灯すという行為、それは明るさを経済的に獲得するということとは無縁で、あの揺らめく炎のあかりに心身が癒されることを目的にしているのです。そしてこの心に染み入る明かりは残念ながら簡単にLED電球に置き換えることはできなさそうなのです。


照明の目的が照度確保のみと考えることをやめてみると、人生の時間はもっと楽しくなるし、LED電球が毎年大みそかになると、一度点かなくなる・・・外して再びセットすると前より明るく点灯するなんていうヒューマン・インテリジェント・電球などが登場してほしいというのは私の妄想なのです。


欧米では高度なテクノロジー社会になった現代だからこそ、人生の時間のために良いコトは何か?という考え方が浸透しつつあります。照明においても、照明というものがもたらす価値を一つの物差しで測る時代は終わり、たくさんの物差しがあって、それで測ってみたら非常に楽しい人生が待っている・・・という風潮になるだろうと信じています。

皆さんはどのように考えますか?

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