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  • 執筆者の写真東海林弘靖 / Hiroyasu Shoji

“闇”は神の領域

更新日:2020年2月28日


祭りに見た美暗


ファッションデザイナーからのお誘い


昨年末、友人でランドスケープデザイナーの団塚栄喜さんが、青山のスパイラルにてmatohu(まとふ)というファッションブランドの展覧会の会場をデザインするので、そこで私に照明のアドバイスをして欲しいというリクエストがありました。面白そうだなと、軽い気持ちで引き受けると返事をすると、ほどなくしてデザイナーの堀畑裕之さん、関口真希子さんにお目にかかることとなったのですが、それがなかなか面白いワクワクする展開となったのです。

 

神秘的な儀式


その展開というのは、堀畑裕之さん、関口真希子さんから、12月に行われる祭りに誘われたことでした。それは奈良の春日大社で毎年12月17日の深夜に行われている祭礼で、なんでも“闇”の祭りだと言うではありませんか。この誘いに照明デザイナーが乗らない訳はありません。12月の忙しい合間を縫って奈良へと向うこととなりました。


祭りの正式な名前は「春日若宮おん祭」と言います。 平安時代の中頃、長年にわたる大雨洪水により飢饉が相次ぎ、天下に疫病が蔓延したので、時の関白藤原忠通公が万民救済の為、若宮の御霊威にすがり、1135年壮麗な神殿を造営しました。翌1136年には、春日野に御神霊をお迎えして丁重なる祭礼を奉仕した・・・というのが祭りの始まりだそうです。


その後、長雨洪水も治まり晴天が続いたそうで、それ以来、どんなに天気が悪くても、戦時中であろうとも、欠かさずに毎年行われて八百八十年余り途切れることなく今に至るのだそうです。


興味深いのはその儀式の方法で、おん祭り自体は数日間にわたるおまつりなのですが、クライマックスは17日の未明に行われる「遷幸の儀(せんこうのぎ)」です。これは神様を本殿からお旅所の行宮(あんぐう/祭の為に一時的に設けられる宮殿)にお下り頂くという闇の中で行われる儀式です。

 

一切の明かりを消した参道


さて、照明デザイナーとして最も印象的だったのはやはり最初の遷幸の儀です。

神様は暗闇の中でしか移動出来ないということで、参道の全ての明かりを消し、参列者も懐中電灯をはじめカメラのフラッシュ、スマートフォンなど、光や音の出るものの使用を禁じられます。その日は、雨が降りそうな暗い夜で、うっそうと茂る参道の林の隙間から微かに暗い夜空が垣間見えています。


曇天の夜空といえども、木立の生み出す闇に比べれば随分光を感じることができるものです。照明を消して10分くらいたったでしょうか・・・じっとしてさえいれば不思議と心地よい闇であることに気づかされました。邪念を捨て去って神を待つ時間・・・人間の行動を抑制する闇は“神の領域”であることを確信してまいります。


そこから15分いやひょっとしたら30分くらいたったのでしょうか、遠くから不思議なうなり声が聞こえてきます。ほどなくして松明の光と音が近づいてまいりました。二人一組の神職の方がたいまつの火で神様が通る参道を清めるシーンです。松明が2本、地面にこすりつけられ、さらにもう一人の神官が木の棒で松明をたたきつけながら進んでいき、その後ろには2本の火の粉の道が通り赤く浮かび上がってまいりました。そうバックトゥーザフューチャーでデロリアンがタイムスリップする時に出来る火の轍のもう少し暗い感じなのですが、これもまた非常に幻想的な暗闇の中での光景でした。


そして、先ほどから聞こえていたうなり声「うぉーぉーーー」という大合唱、約30人ほどの神官がその真ん中にいらっしゃるご神体を取り囲みながらゆっくりと近づいてきました。あたかもオシクラまんじゅうをしているかのように身体を押し付けている集団です。闇と音の結界を作っているのだと言います。人々は手を合わせて頭を低くして、松明をこすりつけてできた神様のための光の道をご神体が通り過ぎるのをじっとしていました。

 

“闇”とは


神様が行き来する還幸の儀と遷幸の儀は古来から神秘とされ、“浄闇の中で執り行われることとなっている”らしいのですが、まさに闇は“浄”=正しいもの、ネガティブなものではなく肯定的なもの、あるいは優しさや美しさであったりもするという確信を得る体験でした。


現代の照明デザイナーが取り扱う空間の多くは、飲食、物販、サービスなどビジネスが行われる空間です。それは明るさのレベルが高い場所であり、そこでの暗さはネガティブに捉えられがちです。しかし、それはあくまで資本主義的な目的を持った空間であるゆえの考え方なのでしょう! 家などの人間の魂を癒すような空間、さらには神様を扱う空間へと感覚を移行していくと、明るさに対する認識は根本から覆ります。


経済活動の中にあって暗いとされる空間は、神の領域には入ることができない、まだまだ明るいエリアであるのです。私が語り続けてきた美暗という概念は、神の領域に入る相当前の光の段階であって、その探求にはまだまだ時間がかかりそうだな・・・そんなことを感じる若宮のおん祭体験だったのです。


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