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  • 執筆者の写真東海林弘靖 / Hiroyasu Shoji

日本らしい光を考える


自転車と奥に見える白い球状ライト
影を生まない光 -「イタリアと日本・生活のデザイン展」2001年開催より photo by Toshio Kaneko

影から考える光の在り方


光とは・・・


明けましておめでとうございます。東海林弘靖です。光のソムリエ・プルミエールでは、今年も人生を楽しく豊かにする光や照明をさまざまな切り口から追求してまいりますので、ぜひお付き合いいただければ幸いでございます。


さて早速ですが、この新春より私が気になっている光のお話をさせていただきましょう。おっと、光の話と申しましたが、実は気になっているのは、「陰影」なのであります。照明デザイナーは、一般的に光を生み出す職業、暗いところあればそこに光を与え、不安や不具合の無いようにするのが仕事と考えられています。


しかし、光あるところには必ず影があるのも真実です。これまでにも、影に着目することが、光を理解するには良いアプローチだと言う先人も多くいたものですが、私が考えている影の世界は、村上春樹の小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を思い起こさせます。

 

“影のない国”

この小説は、「世界の終り」の章と「ハードボイルド・ワンダーランド」の章が交互に進行するオムニバスのようになっているのですが、この中に“影のない国”というシーンが出てくるのです。


物語はこんな感じです。・・・その国に入るゲートをくぐるとそこは広場になっています。その国に入るためには、一旦この広場で自分の影を預けなければなりません。そして、そこから先は影のない自分と付き合っていく・・・、といった展開なのです。物語的に考えると、影というのは自分自身を映す、自分を客観的に見るためのもう一人の自分、もしくは自分が生きている証しを確認するもの、そんな意味合いで使われているのでしょうが、私はこの小説を思い返して、この“影のない国”というのは、まさに日本なのではないだろうか?と思ったのです。 日本の伝統的な絵画、例えば大和絵や浮世絵などでは、あまり強い影は描かれません。対照的に西洋画は光と影のコントラストをしっかりと描くスタイルが多くみられます。光は影を生み、季節や時間を示してゆく・・・それがヨーロッパの考え方なのかもしれません。一方日本の絵画は、常に平面的に見えるのは、影が描かれないから、つまり曇り空の下で見えるような景色、まさに村上春樹の“影のない世界”の景色なのではないかと考えます。

 

「明るいのが好き」に見る価値観


そこでさらに思い起こされたのは、「明るいのが好き」という日本人の精神構造です。照明デザインの実務中でも、「明るくしてください」というリクエストを受けることが本当に多いのです。これは日本の高度経済成長期に蛍光灯が普及したという歴史がなせる業との見方があります。つまり、その時代、毎年サラリーマンの給料がぐいぐい上がっていくと同時に、住宅照明用の光源として明るく電気代も安い蛍光ランプが普及していったのです。暗い→明るいという変化が、まさに幸せな時代の象徴であったのです。


ずーっとそう思っていたのですが、最近少し疑問に思うようになってまいりました。はたして、このことは、単に時代と照明技術との連携が偶然に合致した結果でしょうか・・・? いや、元来、日本人の光に対する感受性というのは、大和絵や浮世絵のような、平面的に見える光環境が好きだったのではないかと考えるようになったのです。それは、外の光が障子を通して室内に入ってくるような、柔らかく白く拡散した光です。あるいは、梅雨や台風の季節に多く見られる曇り空は、明確なシャドウを生まない状態を私たちは知っています。この環境をホワイトディフューズドライトとでも言いましょうか。これこそ、日本的な光に対する美意識なのではないかとも考えるようになったのです。 そういった観点から今までの建築照明デザインを見てみると、スポットライトがパーンと当てられたメリハリのある光の空間、この光のコントラストを空間の中で配分し、デザインするということを、建築照明デザインではずーっと繰り返してきたのです。先輩から教えられ、その先輩たちはアメリカで生まれたこの光の美意識に学んだのでしょう。今思えば、これは西洋画の世界観です。私たち照明デザイナーは、その世界観、価値観に基づく文化を連れてきたのでしょう。


しかし、元来日本人はもっと柔らかな、包み込むような光を良しとし、それが今の日本人のマインドにも引き継がれているのではないか・・・と考えると、「明るいのが良い、好き」という日本人の嗜好も良く理解できましょう。 白く、明るく、しかし眩しさのない、フワーッと柔らかに人を包む光、そしてその光の下には強い影がなく、繊細な陰翳のみが存在しています。 ひょっとして谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』にもそんなニュアンスが隠されていないだろうか? もう一度これを読み返して、今年をスタートさせたいと思っているところです。


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